めでたい日にしみったれてる

ハイクでも同じ内容を書きましたが。要は、ヨコヒナと三馬鹿が好きですって話です。おわり。(終わった)


何年か前の25日の日記を読み返しました。あの頃は、こんな日常が来ているなんて思いもしなかった。もう、ヨコヒナを見て胸の奥がチリチリと焦げるような痛みは感じない*1。けれど、何も感じないかと言ったらそんな訳はなく、何を感じているかじっくり観察をしてみると、ふわりとやわらかい気持ちを得ている。十代*2特有の、他人事をまるで己が事のように感じて恥ずかしげもなく涙することすらできる、そんな感情の振れ幅がなくなったからだろう。誰かの人生を意識的に感じるだけの余裕が、今の私にはない。ただただ、癒されている。


たぶん、羨ましいのだと思う。横山さんが、ではなくて、村上さんが、でもなくて、彼らのどちらもが。羨ましい。私は、24歳になったら、少しは二人ないし三人の見たものが見えるかと思った。だから早く24歳になりたいと思っていた。少しは追いつきたかった。でも実際24歳になったところで、何が見えたということもなかった。私には私の幸せや不幸せがあり、彼らにも当然。それはどんなに無理やり繋げようとしても一切繋がらないもので、重ならないもので、そんな当たり前のことに気づかなかった。いくつになったって、一生追いつきやしない。そもそもの次元が違う。「ねじれ」の位置にいる。それでも私は無いものを強請り、彼らを「羨ましい」と思う。彼らがお互いに持っているものを、とてつもなく羨ましいと思う。「普通の社会人」を営んでいる大多数の人間には、きっとなかなか手に入れられない。ごく少数の人間だって、手に入れかけてはこぼしていく。私は彼らになりたいとは思わないし、彼らと交わりたいとも思わないけれど、子どものように指をくわえて彼らを羨ましいと思う。その先にあるものを想像もせずに。


だから、これからもそのままでいてください。こんなにもどす黒くない嫉妬、なかなか感じられない。そして、羨ましくないものになんて、これっぽっちも憧れないし、惹かれもしないのだから。

*1:もちろん、「萌え」という言葉で表現される怒涛のような感情(笑)は多からず湧くけど

*2:「二十歳そこそこの学生」はまだ「十代」と定義!